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小説「ボタンひとつの幻想」―属人化を恐れた男の、定年後の後悔

「ボタンひとつの幻想」―属人化を恐れた男の、定年後の後悔

第一章:属人化禁止令


「また君か。マクロは使うなと言っただろう!」


重々しい声で怒鳴ったのは、総務課長の灰田誠司(はいだ・せいじ)。定年間近の彼は、部長に次ぐ実権を持ち、「VBA撲滅」の急先鋒として社内に知られていた。


若手社員の岸本は、業務報告書を自動作成するマクロをこっそり作っただけだった。たった1秒で完了する処理を、人の手で毎回30分かけてやる。その無駄を減らしたかっただけなのに——。


「属人化は悪だ。誰かが辞めたら終わりじゃないか。会社というのは誰でもできる仕組みで動かすべきなんだよ」


灰田はそう断言し、岸本のファイルを削除させた。以来、社内の誰もVBAに触れようとはしなくなった。手作業は増え、残業も戻り、社員たちは日々疲弊していた。



第二章:退職と無力


数ヶ月後、灰田は惜しまれながらも退職した。式典では部長や社長までが「属人化を防いだ偉業」と称えた。


——しかし、現実は違った。


「夕飯? 冷蔵庫に何があるかも知らないよ…」


妻の百合子が急遽、実家の両親の介護で遠方へ行くことになった。


初めてのスーパー、初めての洗濯機、初めての電子レンジ操作。灰田は何ひとつできなかった。家事に「手順書」はない。マニュアルも誰も作っていない。


「何がどこにあるかもわからん…!」


スマホで調べようとしても検索ワードすら思いつかない。自動炊飯器すら怖くて触れない。ついに彼は、レトルトのカレーすら焦がしてしまった。




第三章:ひとりで生きるということ


数日後、百合子から連絡があった。


「まだ戻れそうにないから、ごめんね、頑張って」


電話の向こうで、疲れた声が漏れる。


電話を切った後、灰田はリビングの椅子に沈んだ。


そして、ふと思い出した。かつて、若い部下たちが自ら工夫し、マクロを作っていた姿を。だが自分は、それを「属人化」と決めつけて潰してきた。


「自分で学ばなかったのは、誰だ?」


属人化を避けるふりをして、本当は自分が変わりたくなかっただけ。自分が理解できない技術を、組織ごと無視させていただけではないか。それは、「誰でもできる仕事」の名を借りた、成長の拒絶だった。




最終章:ボタンの向こうにある未来


翌日、灰田は初めてYouTubeで「Excel VBA 初心者」と検索した。

動画では、若い講師が笑顔で言っていた。


「プログラムは人に優しく、ミスを減らし、未来を整える道具です」

あの時、岸本が言っていた言葉と似ていた。


「今さら…か。でも、今からでも、やってみるか」


灰田はマウスを動かし、Excelを開いた。そして、数十年ぶりに、自分の手で最初のボタンを押した




エピローグ:誰のための“誰でも”か



属人化を避けるために、全員のスキルを最低値に合わせる。それは本当に組織のためだろうか?成長を促すことこそ、結果的に“誰でも”支え合える仕組みではなかったのか?


この物語は、そんな問いをあなたに投げかける。「誰かのために」動かない人間は、結局、自分のために動けない人間になるのかもしれない——。

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